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千葉県議会議員 鈴木まもる
鈴木まもる 活動報告
東京湾海堡
 品川台場とまったく同じ思想のもとで建設され、いわば、兄弟の存在といえる人工の島が東京湾口にあると聞けば、驚く人も多いのではないだろうか。

 品川台場と東京湾海堡の関係は、ペリー来航前の天保10年(1839)、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門(1801〜1855)が江戸幕府に対し、海岸防御計画を提出したときから始まる。このとき、江川の防御計画では、観音崎と富津岬を結ぶ防衛線が最も重要としている。その測量製図を和算家の内田五観(1805〜1882)が引き受けている。

 そして、ペリー来航後の嘉永6年(1853)に作成された江川の意見書においては、観音崎と富津岬の間に9個の海中台場を建設することを検討し、品川沖の台場建設は最後の護りとしている。すでに東京湾口の海堡建設の検討がなされていたわけであるが、東京湾口は水深が深く、費用と年月がかかるために見送られ、品川沖に台場が建設されることとなった。この品川台場の計画・施工の中心となったのが江川であった。第一、第二、第三台場は嘉永6年8月28日(1853.10.1)に着工、嘉永7年7月9日(1854.8.2)に竣工、第五、第六台場は嘉永7年3月11日(1854.4.8)に着工、同年12月15日(1855.2.1)に竣工している。第四と第七台場は未着工だった。

 品川台場建設後の安政2年(1855)ころ、後に海堡建設に従事する西田明則(1828〜1906)は、内田五観の「瑪得瑪弟加」と名付けられた和算の塾に入門し、西田は和算と測量技術を学んでいる。このとき、西田は内田から、江川の計画した観音崎と富津岬の間の9個の海中台場について、話を聞いた可能性は十分に考えられる。江川と西田が繋がり、すなわち、品川台場と東京湾海堡が、建設した関係者によって繋がっていることがわかる。
 東京湾海堡を品川台場とともに説明すると次のようにまとめられる。
@ 江戸を護るために、観音崎と富津岬の間に海中台場(海堡)建設を計画していたが、技術的に難しく断念し、品川台場を建設した。
A 明治以降、用語が変わり、それまで台場と言われていたものが砲台と言われ、人工の島に創られた大砲を海堡と言うようになった。
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